ハート・ロッカー(2009)

というわけで『ハート・ロッカー』、輸入DVDが届いたのでオッ!本邦公開前の映画が!とか言って放っておいたら絶賛公開中となり、そしてアカデミー賞にも輝いてしまった。普段からブラック・レインがどうした超人ハルクがどうしたとかそんなことばっかり書いてるくせに、いきなり最新映画の話をするのも非常にバツの悪い感じではある。が、それでも書いとかなきゃならんと思うのはこの映画が俺の愛してやまない『フレンチ・コネクション』(71)から続く、「働く中年映画」ジャンルに新たな1ページを加えた名作だからだ。
映画についての詳しい説明はあっちこっちでされているから端折るけれども、主人公(『28週後・・・』で頼れる軍人のお兄ちゃんを演じていた俳優。好感が持てる男だ)は何しろイラクで爆弾処理をするエキスパートだと。地中に埋まった、または車のボンネットに仕込まれた爆弾を黙々と処理する。ワイヤーをぶちぶちと切る。ちょっと何かを間違えば即死するという状況で、エヘヘと笑いながら楽しげに仕事をする。大義名分は特にない。まあ変態ですね。周りの連中はもうちょっとマトモなので、爆弾を目の前にして変にテンションが上がっている主人公が嫌でしょうがない。まあそれでも男同士の関わり合いがあって、相互理解というかちょっとした友情のようなものが醸成されてきそうにもなるんだが、しかしこれが長続きしない。

(そういえば乗用車のパーツを次々に外しながら爆弾の起爆装置を探すあたりに、また『フレンチ・コネクション』リスペクトを感じましたですね。まあ俺のこじつけですが!)

または主人公の親しくしていた少年が殺されて人間爆弾にされる。主人公には何かしら感情の動きめいたものがあって、それを企図した人間を追い詰めてみようとするけれども、その努力は結局知らないオバハンにどつかれただけで終わる。あるいはテロの現場で爆弾処理という職務を超えて敵を直接追ってみるが、ここでも部下が負傷しただけで何も達成することはない。その負傷した部下から、主人公は最終的に「あんたに付き合ったおかげでこの有様だ!くたばれ!マジで!死ね!」と言い放たれる。そこまでに多少なりとも人間関係が作られてきたにもかかわらず、たぶん彼らの関わりはそこで終わりだ。さまざまなエピソードが散文的に出てくるけれども、そのどれもが全然いい話で終わらない。言ってしまえば全部グダグダな尻切れトンボに終わる。そして結局主人公は黙って爆弾のワイヤーを切るしかない。同僚から嫌われようと、女房から理解されなかろうと、とにかく黙ってそれをする。いろいろやってみようとはしたけれども、他のことは爆弾処理のように上手くできないからだ。
映画がそろそろ終わろうという時、主人公の同僚がとうとう弱音を吐く。こんなの我慢できねえ。俺が死んだって悲しむ奴もいない。そう言って涙を流す同僚に、主人公は何ひとつ気の利いたことも言えない。逆に聞き返す。俺が何でこんなことやってるか分かるか? 知らねえよ、と言われて「だよな・・・・・・」という、この説明のつかなさ。結局いいことのひとつも言えず、また結局誰からも理解されないこの隔絶感。『フレンチ・コネクション』の最後で、ずっと相棒をやってきたロイ・シャイダーにも愛想を尽かされてしまったポパイ刑事の、まあ何というか「彼岸に行ってしまった」感。『ハート・ロッカー』の終盤で交わされる上記グダグダな会話で、そんな情景を思い出しましたですね。
まあ何というか、『ハートブルー』(これも実にしょうもない男たちが出てくる、実にしょうもない映画だった。そこがいい)と同じ、キャスリン・ビグローによるアドレナリン中毒者に関する映画というか、要は生きるか死ぬかの極限でなければ生の実感が得られないと。そんな男の物語だ、ということなんでしょう。が、そういうことを超えて何か、手許にある仕事。これを人より上手くできるということだけが俺のアイデンティティだと、他のことは知らんから俺はこれをやるんだと。そこを突き詰めていけば人間は容易く「あっち側」に行ってしまうんだということ。それを活写したという点において『ハート・ロッカー』は、「働く中年映画」の系譜に正しく連なる映画だと思う。アカデミー賞に加えてホーク賞をさしあげたい。