Drafted Again

ご無沙汰しております。ご無沙汰していた間に何をしていたかというと、主にスヌーピーの兄さん、スパイクのことを考えておりました。

わざわざ説明するまでもないかと思いますが、スパイク兄さんはカリフォルニア州ニードルスに独居しております。ニードルスというのはまあこういうところですね。

俺も10年ばかり前に実際こういうところに行きましたが、まあわりと想像を絶する世界でした。半径何10kmあるんだよというこんな場所で何かアメリカ人がバギー的なものを超楽しそうにブッ飛ばしており、俺はその時左腕を骨折していたのでただボーッとそれを見ていたわけですが、まあたぶんここで迷ったら死ぬなと直感的に思った。田舎という概念が変わる出来事でした(そういえば『プレデター』で、南米バルベルデのすごい密林でジェシー・ベンチュラがやはり「ここで迷ったら、死ぬな」と言いますね。アメリカのド田舎で同じ台詞がふと口をついたので若干嬉しかったと同時にだいぶ慄然としました)。ともあれスパイク兄さんですが、何しろこういうド田舎にたったひとりで暮らしている。こんなところで毎日何をしているかというとだいたい砂漠にボンヤリ座っているわけです。友達といえばそのへんに生えているサボテンぐらいしかいない。ですがまあ友達といったってサボテンですから、話しかけてみたところで何かいいことがあるかといえばそんなこともないんですね。というか話しかけたってもちろん返答さえないわけです。ただそういう非常に何というか、サボテンとの砂を噛むような人間関係がありつつ、ときどきスヌーピーに会いにきたりするにおいてはわざわざそのサボテンを担いでくるような。ということで言ってしまえばまあちょっと頭がね。スッ飛んだ御仁ですね。ただこう見えて結構な実力者で、かつてはミッキーマウスから靴をもらったこともあるという。そういう底知れない人物です。

俺はこのスパイク兄さんが昔から好きで好きで、特にここ10年ぐらいはちょっと見ているだけでウッとなるぐらいになってきた。この感情は何だろうか。改めて考えると不思議に思えてくるわけですが、思うにこの尾羽打ち枯らした感じというか、何だか痩せて髭がショボショボ生えている感じ。これを見ていると以前家にいた猫を思い出すんですね。俺が高校生の時分から家にいてずいぶん長生きしましたけど、当然歳を取りますから、俺が30前後になるぐらいにはまあ痩せてショボショボしてですね。それまでは活発に走り回ってさんざんメシを食ったりしていたのですが、晩年はまあ何もしないで日がな一日ボーッとしていた。このスパイク兄さんを見ると必ずあの頃の愛猫を思い出すのです。ということもあってもはや他人事とは思えないのであった。まあでもよくできた動物キャラクターには、どこかあの頃一緒に暮らした動物のことを思い出させる何かが必ずあるなあと思うのですが(映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』におけるロケット・ラクーンなんかもそうでした)、そのことについてはまたの機会に掘り下げましょう。

で、そういうスパイク兄さんのことを時々思い出すわけです。そういえばスヌーピーの兄弟は他にもいまして、まあそれぞれに様々な生活を送っておりますが、しかしド田舎の砂漠で世捨て人のような暮らしをしているのはこのスパイク兄さんだけですね。よくよく考えれば何でそんなところで、と思いますね。決まっちゃってんのかなと。ただまあ決まっちゃってるにしても何かそうならざるを得ない理由があったんだろうか。そういえばあったんですね。ベン・ケノービばりに砂漠で隠遁しなきゃいけない理由が。それがシリーズのずいぶん後期、1994年9月18日に描かれていた。

こういうことですね。若い頃は(若い頃、ですね。つまり今はもうオッサンなわけです)弟のスヌーピーと同じく、人間たちと暮らしていたこともあったと。そんなある日道を歩いていたら、目の前を兎が横切った。一緒に歩いていた人間たちはあの兎を捕まえろ!と言う。よくよく考えればスパイク兄さんもビーグル犬ですから、何というか条件反射的にこれを追いかけたんでしょうね。「実際問題、兎を捕まえたところで何になるのか、自分でも分からなかった」と本人も述懐しますが、とか何とか言っているうちに必死で逃げた兎は道路に飛び出し、車に撥ねられてしまった。最終的なことは書かれていませんが、おそらく兎は死んでしまった。突然目の前でこんなことが起こった、いや自分で起こしたわけですけど、これでスパイク兄さんはどうしたらいいか分からなくなります。自分のしたことが信じられない。我に返ってみればそういう結果を招いた自分が憎くてしょうがなく、また元を正せば兎を捕まえろと言った人間たちのことも憎いと。それで何もかもつらくなってニードルスの砂漠に引っ込むことを決めるわけです。このさい誰とも関わりのない場所に来てしまえば誰を傷つけることもなかろうと。そういう経緯があって、今は毎日サボテンに話しかける生活を送っている。
撃墜王スヌーピーの話なんかもそうですが、ああ見えて『ピーナツ』にはけっこう戦争に絡んだ挿話が多いんですね。D-DAY近辺になると必ずノルマンディ上陸作戦における歩兵スヌーピーのエピソードがある。このへんに関しても考えるところは結構いろいろあって、そのお話はまた別の機会に必ずしますが(たぶん5年以内ぐらいには)、しかしこのスパイク兄さんの挿話もですね。決して直接そう言っちゃいませんが、俺には何だかやはり、これはベトナム戦争のことなんじゃないのかなあと思えてならないわけです。アメリカ人が若いうちに訳も分からずケツを引っ叩かれて、何だか駆り立てられるうちにしたくもない殺しをしてですね。起こった結果に対してその意味が遅れてついてくるということがありますね。自分は何をしてしまったのか、自分はいったい何になってしまったのか。そう悔いた時にはもう遅かった。それですっかり嫌になってしまった。そういう人はおそらく相当数いたんだろうなと思う。
ランボー / 最後の戦場』の冒頭におけるジョン・ランボーですね。ベトナムからこっちいろいろあって、と言えば乱暴ランボーだけに)ですが、まあいろいろあってもうド田舎に引っ込んで、誰とも関わらなくていいような生活を送ると。おそらく今こうなってしまった自分も嫌なら、当然そういう状況にまで自分を追い込んだ社会も憎い。ただそれを言ったところで何がどうなるわけでもないので、毎日を無為に過ごしている。たとえばそういうランボーの姿と、このスパイク兄さんがどうしても重なります。と考えればもうこの人のことが悲しくてしょうがなくなり、前述したようにただでさえショボショボした動物には胸が潰れそうになるわけですが、こうなれば大の大人が酒飲んで泣くしかない。なぜこんなことを今書いているのかはよく分かりませんが、まあそういうことをふと思い出したのでした。ではまたお目にかかりましょう。