エイリアン4(1997)

 1997年の『エイリアン4』を、シリーズ最高傑作だという声はここ15年で2回ほどしか聞いたことがない。公開当時は微妙な反応が大多数を占めた『3』でさえ「単純にダメな映画というより、いろいろあって残念なことになってしまった作品」という評価がほぼ定着している。『3』には皆そうやって同情的な、優しいまなざしを向けるくせに『4』のことは大多数がフフンと鼻で笑う。中にはふざけるんじゃねえ、何だあの映画と激烈な反応を見せる向きもいるが(詳しくは後述)、大方の場合「ああ……アレね」と流されてしまう。酷い扱いである。

 『エイリアン』シリーズは足かけ14年続き、92年の第3部で完結した。しかも主人公の自決という、ぐうの音も出ない終わり方で。それでもまだやれると、続行の号令がかかる。シガーニー・ウィーバーのリプリー続投でまだまだ行くと。そのニュースには誰もが「えっ?」と言った。彼女は溶鉱炉に身を投げて蒸発したじゃないのと。いったいどうするつもりなのかと思っていたら、リプリーはクローンとしてあっさり復活することになった。

 『エイリアン4』の舞台は前作から200年後。軍の宇宙船オーリガ号で、エレン・リプリーが蘇る。あっという間に赤ん坊から中年女性にまで成長した彼女は体内に宿したエイリアン・クイーンの幼体を取り出される。これを成体にまで育て、さらにエイリアンを養殖しようというのが軍の恐るべき計画だった。かつてこの完全生物と戦って死んだ、その記憶が前世から残っているリプリーとしてみれば何をバカなことをと、みんな殺されるわよと鼻で笑う。そしてその通りになる。

 その前に、エイリアン培養の宿主となる可哀想な労働者たち(どこかで冷凍睡眠中のところを拉致したらしい)を運んできた密輸船のクルーが紹介される。恐ろしくドスの利いた声で喋る船長。ドレッドヘアを生やして両袖に『タクシー・ドライバー』ばりの2丁拳銃を忍ばせたクリスティ。ゴリラというか類人猿に近い巨漢ジョナー(『ヘルボーイ』ことロン・パールマン)。車椅子に乗ったヴリース。いずれも素晴らしく悪い顔をしている。美少女コール(ウィノナ・ライダー)も乗ってはいるが、それだけではどうにも埋め合わせようがないほどに人相も素行も悪いゴロツキの群れだ。

 リプリー復活からこれら魅力的な登場人物の紹介を経て、そしてエイリアンの暴走まで映画は最短コースを疾走する。死んだ主人公を生き返らせて物語を再開させようというアホみたいな前提を、おかげで観ているこちらは疑う間もない。シリーズ最短の109分、培養されたエイリアンたちがとうとう檻を破ってからは完全にノンストップだ。

 エイリアンを積んだ宇宙船は地球に向かっていた。これを止めなければ地球は怪物の巣に変えられてしまう。リプリーとゴロツキたちは直径3kmにおよぶオーリガ号を縦断して脱出、その後宇宙船を爆破しなくてはならない。簡単に言ってしまえば本作の物語は以上だ。観直すたびにその一直線なストーリー展開に驚かされる。

 本作のリプリーはもはや人間ではない。クローンによる再生の結果エイリアンとDNAレベルで結合、超人的な体力を持ち、体内には酸性の血液が流れる化物になってしまった。制御できるはずのないエイリアンを飼い馴らそうとして逆襲され、死んでいく人間たちを、彼女は常に冷たい眼で眺めている。だが怪物のDNAと同時に、人間としての記憶もリプリーには確かに残っていた。エイリアンを倒し、人類を救わなくてはならないと本能に刷り込まれていた。だから地球へのエイリアン到達を阻止するために戦う。

 そんな彼女がクローン技術によって蘇るまでには7回の失敗があった。ホルマリン漬けにされた出来損ないの奇形児たちが、人間ともエイリアンともつかない奇怪な姿を晒している。それに怪物のような姿を晒しながらまだ生かされている「リプリー7号」。脱出行の途中、ご丁寧に保管されていたそれらを目の当たりにしてとうとうリプリーは感情を爆発させ、自分自身の失敗作を泣きながら焼き払う。

 その間にもエイリアンの群れは主人公たちに迫っていた。水没した食堂を泳いで渡り切った一行だが、しかし長い垂直な梯子の上でエイリアンに追い詰められる。半身不随のヴリースを背負って必死に梯子を上るクリスティに、水中から飛び出したエイリアンが迫る。エイリアンの吐き出した酸を顔面に受け、思わず梯子から手を放すクリスティ。背中のヴリースが間一髪で梯子を掴む。小人が大男を背負う格好になる。絶体絶命のクリスティは先行していたジョナーに助けを求める。低いホーンの音がファンファーレのように鳴り響くなか、梯子に足を掛け、銃を構えた両手を大きく広げてゆっくりと逆さ吊りになるジョナー。「死ね、クソ野郎!」ジョナーが乱射する拳銃の餌食になって弾け飛ぶエイリアン。この「逆さ十字架・2丁拳銃乱れ撃ち」の場面だけを、何度も何度も観てしまう。ここまでのハッタリはシリーズ前3作にはない。このような、言ってしまえばバカみたいな演出が本作に漲っている。

 やり過ぎな演出が最高に光り輝く場面はまだまだある。かつてエイリアンの幼体チェスト・バスターに寄生された人間は誰しも胸を食い破られ、そのまま吐血して死んだ。だが本作での宿主こと、冴えない眼鏡の労働者パーヴィスは映画のクライマックスで信じがたいド根性を見せる。いよいよチェスト・バスターが自分の胸を食い破ってくると悟ったパーヴィスは、自分をそんな目に遭わせた軍の科学者レンに向かって突進。胸に何発も銃弾を浴びながら怨敵に鉄拳を叩き込み、さらには鉄製の階段にその頭をガンガン打ち付ける。その挙句、自分の胸から飛び出してきたチェスト・バスターでもって憎い科学者の頭を貫通させた。哀れなパーヴィスは結局チェスト・バスターもろともに射殺されるけれども、これは巨大企業や軍、あるいはエイリアンにいいように蹂躙されてきた人間がそれらに初めて一矢報いた、記念すべき瞬間だ。この際カメラは想像を絶する痛みに絶叫するパーヴィスに、フルスピードで接近する。その口内に突入するカメラ。喉を通って気管を過ぎ、さらに肺まで至ったところでチェスト・バスターが歯を剥いてケケケと笑う。この異常な描写。

 こうしたビジュアル的な過剰さにおいて『エイリアン4』はシリーズ最強だ。前3作の監督たちは神経質に画作りをし、理詰めで映画を構築していった。何しろ破綻を許さない。やり過ぎない。対する本作の監督、ジャン・ピエール・ジュネはまず画的なケレン味を何より重視する。何もかもが度を超している。演出も暴力もグロテスクさも。本作に登場するエイリアンはどれも過剰にドロドロした粘液にまみれており、地獄のように獰猛な咆哮を上げる。エイリアンだけではない。人間たちも埃と汗と血にまみれて皆ドロドロしている。本作の脚本を書いたジョス・ウェドンは、それまでにシリーズを手がけてきたタイプの監督が演出することを念頭にシナリオを書いたはずだ。だから本作は映像設計もキャスティングも演出も何もかもが間違っているし、全てがあまりに不気味かつ陰鬱で観るに耐えないと後に語っている。

 本作をいい意味でも悪い意味でも(圧倒的に後者において、だが)特徴づけているのはクライマックスに登場する人間とエイリアンのハイブリッド、ニューボーンだろう。世界中のエイリアン・ファンが本作を口を極めて罵る、その最大の理由がこのニューボーンだ。ハイブリッドといえば聞こえはいいけれども、その姿はとにかく醜い。むしろ腐れ果てて白くふやけた、老婆とオランウータンの雑種と呼んだほうがいい。初期の脚本段階のニューボーンは恐ろしくも格好いいクリーチャーだった。4つ足のその巨体は真っ白で、眼のない頭頂部には無数の真っ赤な血管が走っている。エイリアン・クイーンの進化型とも呼ぶべき新種の怪物には、宇宙怪物が本来持つべき美しさがまだ残っていた。

 ところが監督ジュネはこのニューボーンをいかがわしさの権化として描こうと思ったようで、実際その腹部に巨大な女性器と男性器のハイブリッド的な何かを造形させるほどだった(映画の完成後にこれはちょっとやり過ぎだと悟り、ポストプロダクションでその性器部分は削除させたというが)。とにかくこの新怪物がファンの不興を買った。こんな奇形の化け物を歴史あるエイリアンの眷属と呼べるか!と。それだけニューボーンはグロテスクに過ぎた。しかし人間とエイリアンの雑種という存在はおそらく、これらを掛け合わせて新種を作った人間の醜い心性の象徴であったはずだ。それが恐ろしくもクールな外見をしていてはいけなかった。人間によって造られたこの徹底的に醜い、糞のような化け物がリプリーを母と慕いながら、最終的には宇宙に臓物をブチ撒け、聞くに堪えない絶叫を響かせて死んでいく。その姿も死に様も実に汚らしい。しかし、だからこそリプリーも辛くて泣くし、観ているこちらもあまりのことに開いた口が塞がらなくなるのだ。このニューボーン・エイリアンが仮にウェドンの構想したような、凶悪ながらも美しいモンスターであったなら、映画はここまで凄まじいものになっただろうか。

 異常にハイテンションな地獄絵図が全て終わり、実に200年強の時間を経て、リプリーはとうとう地球に帰還する。クローンだから本人ではないじゃんとか、リプリー自身でさえも「地球に来るのは初めてだし」と言っているとか、そういう野暮なことはこの際言いっこなしだ。とにかく自らの命を賭してエイリアンの地球圏到達を阻止しようと戦い続けてきたリプリーが、途中で一度死ぬという大敗を喫しながらもようやく勝った。ここから始まる新しい物語を観ることは遂に叶わなかったわけで、そのことは実に惜しいと言わざるを得ない。が、さんざん蛇足と言われた本作が実は人間性の勝利を描きながら、見事にシリーズを完結させたことは大いに評価されるべきだと思う。