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「折に触れて物真似したくなる映画」の代表格として『ブラック・レイン』の話をしたけれども、その後(トイレとかで)よくよく考えてみれば、意外とこの類の映画を定義づけるのは難しいのだった。
ここでは何か無性に映画の一場面を再現したくなるということが重要なのであって、これは台詞のみを単独で繰り返したくなるということとはちょっと違う。
例えば『地獄の黙示録』でも何でもいいが、「ベトコンがサーフィンするか!」といったような歴史に残る名台詞。これはこれで口に出して、ないしは手帳に書いて愉快な台詞だ。が、台詞単体の破壊力があまりに高いせいか、意外なことに前後のシチュエーションも込みで(飲み屋で)再現しようという気はそんなに起きない。しかし人はなぜケイト・キャプショー(難波のホステス。ババア)の「コレデパンデモ買ッテ」を物真似してウヘヘへと笑いたくなるのか。
ということを今度はタクシーの中で考えていたら、これはやはり
アメリカ人のオバハン(金髪)が
夜、大阪の橋の上で
そのへんの乞食に100円渡してパンを買うように言う
しかも片言の日本語で、
という状況の突拍子のなさ、あるいは間抜けさによるものだと気がついた。これはガッツ石松が煙草しか持っていなかったという事実にも言えることだし、そして「オヤブンガダマッチャイネエゾ」と吠える白いトックリの男についても同じことだ。「オヤブンガダマッチャイネエゾ」。超かっこいいはずの(事実超かっこいいのだが)優作初登場シーンに紛れ込んだ、なぜか片言の日本語を喋る男。こういう異分子が『ブラック・レイン』という作品を忘れがたいものにしている。なぜこいつがここで、またはなぜこんなことを、という引っかかりこそが「折に触れて物真似したくなる映画」に必要な条件ということなのだろうか。よく分からんなりにどうにかなるだろうと思って書いてみたら案の定どうにもなりませんでした。次回は超人ハルクについての世間話をお送りします!

ブラック・レイン(1989)

まあ大した出来でもないんだが年に何回か見てしまう映画というのがあって、『ブラック・レイン』はその筆頭ですけれども。松田優作の生命を賭した熱演!というあたりが喧伝されがちな本作ですが、まあ何かそういうシリアスな物の見方も当然ある。あるんだが、何で今さら『ブラック・レイン』の話をしているかといえば本作が「折に触れて物真似したくなる映画」という一ジャンルの代表格であるからなんですね。

折に触れて物真似したくなる映画。自分でも何言ってんだか全然分かりませんが、要するに飲み屋とかで映画の一場面とか台詞とかを再現してウヘヘへと笑うような、そういう類いの映画です。別に馬鹿にしてるんじゃなくてそういう再現が何か気持ちいいという。みんなもそういう映画あるでしょ?ないの?ないのか!寝よう!
しかし『ブラック・レイン』はそういういい台詞、いい態度の宝庫だ。
たとえば日本にやってきたマイケル・ダグラスがヤクザの事務所に殴り込み、強制捜査を行う場面でガッツ石松の怒鳴る
「たばこしか持ってねえよ!」とか、
スピルバーグ夫人ケイト・キャプショー(難波のホステス)が道端のホームレスに100円渡して
「コレデパンデモ買ッテ」とか、
意味は分からないが、あるいは意味があったにしても大したものではないような、とにかく飲み屋でリピートしてエヘヘヘと笑うにちょうどいい台詞がこれでもかと詰まっている。

映画の冒頭からして奮っていた。優作がレストランにヌラーと現れて、そこで飯をくっている歳行ったヤクザに挨拶すると。
「久しぶりだな」
「ああ、しばらくだ」
優作は「長生きはするもんだ。ああ?」とか言いながらヤクザの背後に回り、胸ポケットから贋札の原版を抜き取る。
すると三下が「オヤブンガダマッチャイネエゾ」
と言うけれども、用が済んだ優作は意に介せずに帰ろうとする。
そうしたら歳行ったヤクザが
「相っ変わらずヒヨッコだな」
と。
背後からディスられた優作がここでまたヌラーと振り向いて

「ああ?」
と目を剥く。

皆さんこの「ああ?」は記憶に強く刻まれているようで、ここを物真似される方は多い。けれどもそれだけだと実は十分じゃなくて、「ああ?」に至るまでの一連のやりとりが重要なんですね。特に三下の着ている白いトックリのセーター、およびこの男が発する「オヤブンガダマッチャイネエゾ」という、何でお前だけ片言なんだよ、という台詞が凄く重要です。この台詞でビール2杯いける。

映画を総体として捉えてテーマから演出から演技から総合的に論評する、というのがもちろん映画評論の本流でしょう。が、まあ何かそういうことを全部スッ飛ばして、部分部分の気持ちいいところというかアホみたいなディテールだけを熱っぽく語るバカがいてもいいんじゃないか。と最近思います。というか俺はそういうことしかできないような気が最近してきた。

あとは製鉄所での若山富三郎と優作のやりとり、
「ワレ歳なんぼや。もうちっとは生きたいのんと違うんかい」
「あんたほど長生きするつもりはねえよ」
若山先生に間髪入れず口答えした後、優作がクワッ!という顔をする。この人を馬鹿にした態度。このクワッ!だけでなく、それまでのやりとりまで含めて完全コピーしたい。こうした一連のムーブを身につけたら、今度は飲み屋はもちろんのこと、会社とか打ち合わせとかにおいても完全再現していきたいものです。つまり飲み屋を超えて日常生活にまで活かすことができるという、これが「折に触れて物真似したくなる映画」の神髄ということですね。クワッ!


【追記】さらに言えば映画の終盤、優作が若山先生と手打ちということになりますが、今まで散々暴れまくったケジメをつけんかいと、それができなければ今日の手打ちはねえぞ!と若山先生に怒鳴られる。そこで優作が頭を下げずに、若山先生の目をジッと見たまま「……はい」と答えるという、このお前全然反省してねえだろという態度も日常生活において活用したい。

disco boy

ご無沙汰しております。

と挨拶するのも憚られるこの放置ぶりですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
何とかまだ生きております。まだ生きていると言えば、『あしたのジョー』終盤で倒れても倒れても起き上がってくる矢吹丈に対して、ホセ・メンドーサが「マダ生キテイル」と震え上がっておりましたけれども、この台詞が
マダ生キ
テイル
と改行されていたことをいま思い出した。このぎこちない改行が、ホセ・メンドーサの隠しきれない動揺を物語っているように思いましたですね。完全にうろ覚えで書いてますのでもしかしたら全然そんな台詞はなかったかもしれませんが、例えば他にも『ブラック・ジャック』に出てきた名台詞「医者はなんのためにあるんだ」も
医者は
なんのために
あるんだ
と、噛み締めるように改行されていたと記憶している。
だからといって何だということはないが、まあでもこういう吹き出しの中の何気ない改行とか思い出すことあるよね!ないかな!ないのか!寝よう!

anyway the wind blows

ご無沙汰しております。
ご無沙汰ついでに告知でございます。来る7/23(木)、

東雲会VOL.21 飛び出す!東雲会 センター・オブ・ジ・アースで皆殺し大作戦!

というイベントに呼んでいただきました。実に2年ぶりということで私も気合いが入りまして、これは皆さんが驚嘆のあまり座ってウンチを漏らすようなネタを持っていかなくてはならんと。まあ当ブログも案の定開店休業状態、その罪滅ぼしということもありますので尚更気合いが入りました。すると思いがけないことが起こりまして、詳細は省きますが編集中のビデオが先程すべてパーになりました。さらに私が秘密兵器として米国に発注しておりましたDVD、これが昨日、税関で没収されたと連絡が入りました。どうやら23日、座ってウンチを漏らすのは……俺のようだぜ……おっちゃん……

ゴムのシャツ

ご無沙汰しております。
フト気がつけば最後に更新してから3か月が経過しておりました。気持ちの上ではほんの2週間ぐらいのつもりでいたらこの体たらくで、と書くだけ書いて、気持ちの上では○○のつもりでいたら、というのは結構便利な言葉だなあ。と思う次第です。

さて昨夜はバカヨシキ所長とひさしぶりに再会、「天童よしみの眼には底知れぬ闇を感じる。誰もいない部屋に天童よしみと2人きりにされ、あの眼を覗き込んだら我々は確実に発狂するだろう」ということで合意しました。同時にVC3000のど飴のCMソングは「♪なめたらアカン〜 なめたらアカン〜 のど〜飴〜」と、突然終了することができる。あれは実に凄い歌だということを力説しましたが、これについてはあまり賛同を得られませんでした。

いつでも終了できるのは『ベルサイユのばら』のオープニング「薔薇は美しく散る」も同じ、というかこっちはもっと凄くて、試しに「♪薔薇は薔薇は 気高く〜咲い〜て〜」というサビの部分をやってみますが

♪薔薇は薔薇は 散〜る〜

ね?どう説明したらいいのか分かりませんが、ほとんどすべてのフレーズが間をスッ飛ばして締めの「散〜る〜」に繋がるという、まあ恐ろしい歌だなあ。

♪草むらに 名も知れず 
 咲いている 花ならば
 ただ風を 受けながら

と、ここまで歌ったところで急に面倒くさくなって

♪散〜る〜

と無理矢理終わらせることができるのです。もっと面倒くさい場合は、

♪草むら〜に〜 散〜る〜

とやればいいのです。イントロの異常な大仰さも相俟って、まあ何というかこの物凄い肩透かし感。歌というのはこうでなければいけません。俺はそうやってここまで来た。そしてこれからもだ!散〜る〜



絶望のクソッタレ

今月号の映画秘宝、特集は「史上最強のザ・ローリング・ストーンズ大特集!!」。いいねえ。ストーンズのかかる映画がドバッと網羅されておりますが、まあ改めて一覧を見ると乱暴な映画ばかりだなあ。
でこの特集を読んでいたら、かつてコメディアンのデニス・レアリーが漫談のなかで吠えていたことを思い出した。「もし俺がバーを開いたら小洒落た音楽なんて絶対に流さねえ。流すのはストーンズだ!飲み物はビールとウィスキーしか出さねえ。飲んで泣いて喧嘩してうんこを漏らす場所、それが俺のバーだ!そしてストーンズ。24時間ストーンズだ!」
とまあ、ローリング・ストーンズはそういう野蛮な気分によく合うなあというお話ですけれども。

それからストーンズのかかる作品で思い出したのがスティーブン・キングの小説だった。『最後の抵抗』、昔読んだときは『ロードワーク』という題名で(原題も同じ)、ボクサーの話だろうかと思ったら道路工事のことだった。何と殺風景なタイトルだろうかと思うが、お話はもっと殺風景だった。

1973年、メイン州(たぶん)。高速道路を作るからというので自宅からの立ち退きを勧告された主人公のオッサン。長らく勤めたクリーニング工場は家の近所だったが、これも道路工事の都合で取り壊しが決まっていた。何かよく分からんが勝手に決めやがって冗談じゃねえよ、と依怙地になって、俺はこの家から死んでも動かん!と宣言したら仕事をクビになった。ついでに女房も愛想をつかして出て行った。ということでもう何もする気がなくなり、オッサンは毎日家で酒飲んで煮詰まるだけの日々を送るのだが、まあいろいろ考えてみるに人生こうなっちゃったのはあの道路工事のせいじゃねえか、と思い至る。というわけで地回りのやくざから大量のダイナマイトを購入、深夜の工事現場に侵入してこれを爆破するのだった。これで若干テンションは上がったが暫く経つとまた気分が落ちてくる。しょうがないので毎夜車でそこらへんをブッ飛ばしているとヒッチハイクのお姉ちゃんを拾い、ちょっと色っぽい展開になってみたりもした。それでもうこの際、この姉ちゃんとどこかに行ってみようかなあと、貯金をはたいて旅行にでも行って、それから……ここに帰ってくるのか……と絶望に打ちひしがれているうちにまた1人ぼっちになり、もうどうだっていいやこの野郎!とヤケクソになって、しょうがないから家にいるのだった。何だこの話。
でこのオッサンがある日、ちょっと気分転換に音楽でも聞こうかなあ、と思ってレコード屋に行くんですね。それまで音楽なんてあんまり聞いたこともなかったが、店員に薦められたんだか何だか、ストーンズの『レット・イット・ブリード』とクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバムを買って帰る。さっそく家に帰って聞いてみるとCSN&Yのレコードは何だか女々しくて、どうにもこうにも無性に腹が立ってきたので膝で叩き割ってしまった(手許に本がないのでさっきからうろ覚えを書いてますが、この「女々しかったからレコードを膝で叩き割った」という描写はかなり忠実に覚えていると思う。読んだのはもう10数年前ですが、それぐらいツボに入った美しい文章であった)。
それでストーンズだ。ストーンズがこのオッサンの琴線に触れた。さっきのCSN&Yとは違って、『レット・イット・ブリード』は実によかった。何だか血と暴力の匂いがした……とか言ってオッサンはそれから毎日、このストーンズの69年のアルバムをヘビーローテーションすることになるのです。家で。
(『グッドフェローズ』とか『太陽を盗んだ男』とかいった映画を見ていて思うけれども、まあストーンズは追い詰められた男によく似合うことだ。後者はストーンズの曲こそ流れなかったが)
オッサンは1曲目の『ギミー・シェルター』から街を荒れ狂う暴力にウットリし、あるいは『ミッドナイト・ランブラー』など聞いて、夜中にナイフ持って街をうろつく凶暴な男だなんて、まるで俺のことじゃないかとウットリしたりする。駄目な人ですね。
しかし『レット・イット・ブリード』がそういう、人生のドン詰まりに聞けばもう何か知ったこっちゃねえよバカ野郎!という気分になるアルバムだというのはよく分かる話です。ということでオッサンもついに一念発起。やくざから買ったダイナマイトがまだ残っているので、これを抱えて自宅に篭城するのだった。(オッサン自身が電話した結果、えらい騒ぎになり)警察も職場の人もテレビ局もやってきて家を取り囲む中、オッサンはとりあえずまたこのレコードに針を落とす。B面、8曲目の『モンキー・マン』がフェイドアウトして、アルバム最後の曲『無情の世界』が始まった。「望んだものが必ず手に入るとは限らない」ストーンズが歌う。そうだよなあ。とオッサンはぼんやり思う。そして歌は続いた。「でも何かやってみれば、いつか必要なものが手に入る」
ということでオッサンも何かやってみるのです。何をやってみるんだと言って、まあダイナマイト抱えて篭城すればこうするしかねえなあ、という幕引きですけれども、そこはご自身で確かめていただきたい。
ロードワーク』改題『最後の抵抗』、これはスティーブン・キングが81年にリチャード・バックマン名義で発表した、まああまり顧みられることもない作品でございますが、まあ1人の男の生活が次第に煮詰まりきっていくまでをローリング・ストーンズの音楽に乗せて描いた大名作ですよ。というわけでフランク・ダラボンか誰かが来年あたり、これを映画化するといいと思った。

船だがや

ご無沙汰しております。
というわけでテレビで『プレデター』を見ながらこれを書いております。2か月ぶりに出てきたと思えばテレビ見ながらとはまた失礼な話ですが、しかし『プレデター』をやってちゃ見ないわけにはいかないよ!なあ兄弟!
それにしても本当に『プレデター』は最高だ。全盛期のシュワルツェネッガー、まだ女子供に受けることなど考える必要のなかった頃の、その無愛想な格好良さ。ジェシー・ベンチュラを始めとするコマンドー部隊の男くささ。そんな最強コマンドーたちがバタバタと、地球外生物の餌食にされていくこの緊張感。そしてアポロの役に立たなさ。何たって男ばっかりアホみたいにいっぱい出てきてジャングルの中で宇宙人と戦うという、いまの世の中の基準から考えればずいぶん野心的な内容だと言わざるを得ない。まあ何というかこの宇宙人もただヒマつぶしに来ているだけに過ぎず、シュワルツェネッガーがこれを止められなかったとて地球の運命がどうこうなるとかいう話じゃないのだ。ただまあ行きがかり上というか何というか、この銀河系最強のハンターと南米の奥の奥あたりで、半裸で殴りあうシュワルツェネッガーなのであった。全編のクライマックスがこれだもんなあ。ハリウッド・アクション超大作は派手なだけでどうの、なんてことを言う人はよくいるけれども、こうして見ると結構地味だと思う。しかしそこがいいんだ。そば屋にワーッと入ってカツ丼だけ大盛りで食ってパッと帰るような、そういうナタで切ったようなソリッドさが。女も満足に出てこず、流行りのロックもかからず、脚本も演出も決してお洒落ではなく、そして大勢に影響のないことを男が死ぬ気でやっているだけという、だがそれでも何か今日は見たなあ!映画を!と思わざるを得ないというような、うまく言えないがそんなタコのブツ切りみたいなアクション映画が敢えて日劇で大公開されるような時代が、また来ないものだろうか。