原民喜 『夏の花』 (1947)

ご無沙汰しております。というほどご無沙汰でもないのは実に珍しいことですね。わはは!

ともあれボンヤリしていたらもう8月です。毎年この時期は、というか特にこの時期じゃなくても原民喜の『夏の花』という短い小説をたびたび読み返します。原民喜は1905年生まれの作家です。東京で活動していましたが妻を病気で失い、心にどうにも埋めがたい穴を抱えたまま45年1月、故郷の広島に疎開。そして8月6日の原爆投下で被爆します。『夏の花』は民喜本人がこの日に自らの目で見たことを記録した作品です。

夏の花・心願の国 (新潮文庫)

夏の花・心願の国 (新潮文庫)

  • 作者:民喜, 原
  • 発売日: 1973/08/01
  • メディア: 文庫
実はウェブ上でも全編読めるっちゃ読めるので是非と思いますが、ただ紙で手元に置いて、何度も読みたくなる。あまりに壮絶で悲惨なその題材を考えれば不思議なことですが、それでもどういうわけだかつい繰り返し読んでしまうわけです。

主人公の「私」は朝から便所に入っていたために原子爆弾の熱線や爆風の直撃を免れます。崩れた家から這い出してみれば辺り一面は屍体と重傷者と火に埋め尽くされている。それを目の当たりにして主人公 = 原民喜は、
「長い間脅かされていたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた」
と、独白します。民喜はもともと無口で、まったく社交的ではなかったという人です。社会との唯一の接点であった奥さんを失ったことがその孤独に拍車をかけたんじゃないかと思います。もはや生きていても仕方ないと思っていたのかもしれない。だから原爆投下がもたらした地獄の只中にあっても妙に醒めていたんじゃないだろうか。とは言いつつそこは作家ですから、
「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた」
と言ってですね。ひたすら淡々と、何というか観察するような様子で、原爆投下直後の広島の様子を書き綴っていきます(作品は民喜が当時書いたメモを再構成したものだといいます)。

しかしこれは何ていうんでしょうか。何しろヤバい作品という他ない。小説は主人公が死んだ奥さんのお墓参りをするところから始まります。墓前に名もない「夏の花」を供えるような、戦時下とはいえそういう普通の生活ですね。ところがそれが突然ブッ壊れて、ふと眼前に途方もない地獄というか不条理が現れた。そのことが実体験として極めて冷徹に描かれます。冒頭にちょっとだけあった情緒みたいなものが突如吹っ飛んで、その後には廃墟と屍体と重傷者だけがある。行けども行けども顔が火ぶくれして、目が糸のようになってしまった人たちの群れが至る所に座り込んでいると。暗い川のほとりで、水と助けを求める声がそこら中からするわけですが、次の瞬間にはもう聞こえなくなっている。そういう目の前の状況。原爆投下直後から、おそらく2日間ほどの出来事でしょうか。とにかく無数の死があって、徐々に時系列も分からなくなる感覚があります。読んでいるこちらもちょっと麻痺してくる。そして夜が明けて昼間の街に出てみると、8月ですからもうカンカン照りの太陽が廃墟に照りつけている。焼けて倒れた電車の車体がギラギラ光っていたりする。そういう光景を見ているうちに、ここまでは静かに、自分のことであるにもかかわらず客観的に、理知的に状況を書いてきた人が。突然理性的であることを放棄するんですね。とうとう「あとは片仮名で書き殴ったほうがいいようだ」と。実際それで突然、カタカナの散文が無理矢理挿入されます。何というか、地獄めぐりの末に書き手が明らかに正気を失った瞬間がある。正気というか、人間的な感情というんでしょうか。このさいなので引用します。


ギラギラノ破片ヤ  
灰白色ノ燃エガラガ  
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ  
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム  
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ  
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ  
テンプクシタ電車ノワキノ  
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ  
プスプストケムル電線ノニオイ


ずっと続いてきた冷静無比な地の文に、これがいきなり突っ込んでくるヤバさ。ヤバいヤバいって俺ももうすぐ42歳でその語彙はどうなんだと思いますが、ともあれ何度読んでも唖然とします。これは何ていうんでしょうか。ちょっとこの無機質かつ暴力的な感じ、決してふざけてるわけじゃないですがインダストリアルというのかパンクというのか、そういう感触があります。そして小説はまた地を這うような、地獄のような生活の描写に戻っていくわけですが、また凄いなと思うのはそうした民喜自身の数日間の話がぶつりと終わるんですね。それでどうなるのかといえば「N」という、それまでどこにも出てこなかった男の挿話が急に始まる。
Nは広島市内で被爆した妻を探して廃墟を歩き回ります。しかし心当たりを虱潰しにしても妻は見つからない。うつぶせに倒れている女の人の顔を起こして回りますが、どれも見知らぬ人だった。数え切れないほどの屍体を確かめた後、Nはまた妻の勤めていた学校に向かいます。この短い小説はそこで唐突に終わる。
この構成にもまた唖然とします。冒頭にあった、民喜が亡き妻のお墓に花を手向ける描写。ここには人間が生きて死んだ証みたいなものが確かにあるんですね。ところが原爆投下で一度に死んでしまった数万人、彼らはそんなものもないまま強制的に、暴力的に人生を閉じられてしまった。小説の末尾に突然差し込まれるNの挿話はその代表でしょう。そうやって人間がモノ化されてしまうことの不条理ですね。そうしたことを何ら直接的な言葉を用いずに突きつけてくる。
この『夏の花』は被爆者自身によって書かれた、いわゆる原爆文学の金字塔みたいな評され方をすることが多い。ですがそういうこと以上に、その極めてエクスペリメンタルな構成からあまりに乾いた筆致から何から含めてこれは凄えなあというか、このさい誤解を恐れずに言えば原民喜の目の据わり方というか、この凄みに俺はしびれるわけです。だから何度も何度も読んでしまうんだろうと思う。
広島への原爆投下というのは今から70年前、距離にすれば俺の今いる場所から約800km離れたところで起こった出来事です。時間的にも地理的にもそういう距離がありつつ、そうは言っても明らかに俺自身と地続きなことが『夏の花』に描かれている。原民喜の極めてドライな書き様に引き込まれるうちにそれを実感して、毎度毎度眩暈を覚えるわけです。

原民喜は51年に自殺します。これだけのものを書いた人が結局その後、電車に飛び込んで死んでしまったという、その事実も含めて実に凄まじい作品です。70年前のこの日に起こったことについて今日なぜか俺が話をするのも、何だか8月6日を年中行事的に消費しているような感じでちょっとアレだとは思う。まあしかし今年もまた『夏の花』を読んで改めて息を呑みましたので、ここにちょっと備忘録的に書いておきました。ではまた後日。

Drafted Again

ご無沙汰しております。ご無沙汰していた間に何をしていたかというと、主にスヌーピーの兄さん、スパイクのことを考えておりました。

わざわざ説明するまでもないかと思いますが、スパイク兄さんはカリフォルニア州ニードルスに独居しております。ニードルスというのはまあこういうところですね。

俺も10年ばかり前に実際こういうところに行きましたが、まあわりと想像を絶する世界でした。半径何10kmあるんだよというこんな場所で何かアメリカ人がバギー的なものを超楽しそうにブッ飛ばしており、俺はその時左腕を骨折していたのでただボーッとそれを見ていたわけですが、まあたぶんここで迷ったら死ぬなと直感的に思った。田舎という概念が変わる出来事でした(そういえば『プレデター』で、南米バルベルデのすごい密林でジェシー・ベンチュラがやはり「ここで迷ったら、死ぬな」と言いますね。アメリカのド田舎で同じ台詞がふと口をついたので若干嬉しかったと同時にだいぶ慄然としました)。ともあれスパイク兄さんですが、何しろこういうド田舎にたったひとりで暮らしている。こんなところで毎日何をしているかというとだいたい砂漠にボンヤリ座っているわけです。友達といえばそのへんに生えているサボテンぐらいしかいない。ですがまあ友達といったってサボテンですから、話しかけてみたところで何かいいことがあるかといえばそんなこともないんですね。というか話しかけたってもちろん返答さえないわけです。ただそういう非常に何というか、サボテンとの砂を噛むような人間関係がありつつ、ときどきスヌーピーに会いにきたりするにおいてはわざわざそのサボテンを担いでくるような。ということで言ってしまえばまあちょっと頭がね。スッ飛んだ御仁ですね。ただこう見えて結構な実力者で、かつてはミッキーマウスから靴をもらったこともあるという。そういう底知れない人物です。

俺はこのスパイク兄さんが昔から好きで好きで、特にここ10年ぐらいはちょっと見ているだけでウッとなるぐらいになってきた。この感情は何だろうか。改めて考えると不思議に思えてくるわけですが、思うにこの尾羽打ち枯らした感じというか、何だか痩せて髭がショボショボ生えている感じ。これを見ていると以前家にいた猫を思い出すんですね。俺が高校生の時分から家にいてずいぶん長生きしましたけど、当然歳を取りますから、俺が30前後になるぐらいにはまあ痩せてショボショボしてですね。それまでは活発に走り回ってさんざんメシを食ったりしていたのですが、晩年はまあ何もしないで日がな一日ボーッとしていた。このスパイク兄さんを見ると必ずあの頃の愛猫を思い出すのです。ということもあってもはや他人事とは思えないのであった。まあでもよくできた動物キャラクターには、どこかあの頃一緒に暮らした動物のことを思い出させる何かが必ずあるなあと思うのですが(映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』におけるロケット・ラクーンなんかもそうでした)、そのことについてはまたの機会に掘り下げましょう。

で、そういうスパイク兄さんのことを時々思い出すわけです。そういえばスヌーピーの兄弟は他にもいまして、まあそれぞれに様々な生活を送っておりますが、しかしド田舎の砂漠で世捨て人のような暮らしをしているのはこのスパイク兄さんだけですね。よくよく考えれば何でそんなところで、と思いますね。決まっちゃってんのかなと。ただまあ決まっちゃってるにしても何かそうならざるを得ない理由があったんだろうか。そういえばあったんですね。ベン・ケノービばりに砂漠で隠遁しなきゃいけない理由が。それがシリーズのずいぶん後期、1994年9月18日に描かれていた。

こういうことですね。若い頃は(若い頃、ですね。つまり今はもうオッサンなわけです)弟のスヌーピーと同じく、人間たちと暮らしていたこともあったと。そんなある日道を歩いていたら、目の前を兎が横切った。一緒に歩いていた人間たちはあの兎を捕まえろ!と言う。よくよく考えればスパイク兄さんもビーグル犬ですから、何というか条件反射的にこれを追いかけたんでしょうね。「実際問題、兎を捕まえたところで何になるのか、自分でも分からなかった」と本人も述懐しますが、とか何とか言っているうちに必死で逃げた兎は道路に飛び出し、車に撥ねられてしまった。最終的なことは書かれていませんが、おそらく兎は死んでしまった。突然目の前でこんなことが起こった、いや自分で起こしたわけですけど、これでスパイク兄さんはどうしたらいいか分からなくなります。自分のしたことが信じられない。我に返ってみればそういう結果を招いた自分が憎くてしょうがなく、また元を正せば兎を捕まえろと言った人間たちのことも憎いと。それで何もかもつらくなってニードルスの砂漠に引っ込むことを決めるわけです。このさい誰とも関わりのない場所に来てしまえば誰を傷つけることもなかろうと。そういう経緯があって、今は毎日サボテンに話しかける生活を送っている。
撃墜王スヌーピーの話なんかもそうですが、ああ見えて『ピーナツ』にはけっこう戦争に絡んだ挿話が多いんですね。D-DAY近辺になると必ずノルマンディ上陸作戦における歩兵スヌーピーのエピソードがある。このへんに関しても考えるところは結構いろいろあって、そのお話はまた別の機会に必ずしますが(たぶん5年以内ぐらいには)、しかしこのスパイク兄さんの挿話もですね。決して直接そう言っちゃいませんが、俺には何だかやはり、これはベトナム戦争のことなんじゃないのかなあと思えてならないわけです。アメリカ人が若いうちに訳も分からずケツを引っ叩かれて、何だか駆り立てられるうちにしたくもない殺しをしてですね。起こった結果に対してその意味が遅れてついてくるということがありますね。自分は何をしてしまったのか、自分はいったい何になってしまったのか。そう悔いた時にはもう遅かった。それですっかり嫌になってしまった。そういう人はおそらく相当数いたんだろうなと思う。
ランボー / 最後の戦場』の冒頭におけるジョン・ランボーですね。ベトナムからこっちいろいろあって、と言えば乱暴ランボーだけに)ですが、まあいろいろあってもうド田舎に引っ込んで、誰とも関わらなくていいような生活を送ると。おそらく今こうなってしまった自分も嫌なら、当然そういう状況にまで自分を追い込んだ社会も憎い。ただそれを言ったところで何がどうなるわけでもないので、毎日を無為に過ごしている。たとえばそういうランボーの姿と、このスパイク兄さんがどうしても重なります。と考えればもうこの人のことが悲しくてしょうがなくなり、前述したようにただでさえショボショボした動物には胸が潰れそうになるわけですが、こうなれば大の大人が酒飲んで泣くしかない。なぜこんなことを今書いているのかはよく分かりませんが、まあそういうことをふと思い出したのでした。ではまたお目にかかりましょう。

Jones Crusher

ご無沙汰しております。といいつつ2日も連続で書くのはなぜかというと、えー正直な話現実逃避です。そんなわけでもうちょっと、英語版『子連れ狼』のいいところを紹介しておきましょう。
『虎落笛』と並んでシリーズ前半の白眉といえる(まあ『子連れ狼』は全部白眉なんすけどね。捨てエピソードがない)、『無門関』からお送りします。ここで拝一刀は偉い坊さんを斬ってくれと依頼されます。ところが悟りを開いて無の境地に至った僧侶を目の前に、どうしてもこれを斬ることができないわけです。不覚、とか言いつつ切腹して果てようと思ったら坊さんに止められる。無なるものを斬ることができなくともそれはしょうがないと。けれどもこっちはプロの刺客なんで、仕事を完遂できなかったら死ぬしかないんで、と言ったらじゃあ刺客道を捨てよ!と坊さんが。それもできない相談だった。じゃあこのさい心を無にせよと、そうすれば無なるものを斬ることもできようと。刺客道の無門関に至るのだと。刺客道の……無門関…… かくして拝一刀は刀を封印、ひたすら座り込む日々が続きます。


主観と客観を
ひとつにし
おのれをわすれ
無とおのれを
ひとつになし
内外打成の一片と
なれぬものか………


生まれてから
今日まで会得した技も
知識も 経験も
すべて無に帰し
仏に逢うては
仏を殺し
父母に逢うてはこれを殺し
祖に逢うては 祖を殺し
しかして
何の感情も抱かぬ
無字の境地に至れぬものか!


有名な「仏に逢うては仏を殺し」ですね。"Meet the Buddha, kill the Buddha" と、まあストレートですね。でもこのへんの台詞は日英併せて全部暗記しておきたくなる格好よさだ。

で、件の坊さんの言っていた「無門関」。『無門関』というのはそもそも1200年ごろ、中国宋代で編まれた禅の公案集であると。なんとなくありがたい感じがするので以前買ってはみたが、実はその後あんまり読んだことがないのはここだけの話です。ともあれその48ある問答集、というか公案集ですか、ド頭に書かれているのが


大道無門
千差路有り
此の関を透得せば
乾坤独歩ならん


ということですね。よく分からないが超格好いいことだけは確かだ。それが英語だとこうなります。

実にしびれる。原語版は上の言葉が、筆文字でババーンと書かれて失禁ものでありますが、それはそれとして英語で言ってもらうとその大意が多少なりとも理解できるような気もしますね。つまり何でしょうか、世の中に道はナンボでもあるが分かりやすい入り口なんてものはないんだと。道をさえ見つければひとりでも、いかようにでも歩いていけるのだと。ボンヤリとだが分かってきたような気がする。気のせいかもしれませんが……。ともあれたったひとりの座禅修行を経て、ついに刺客道を極めた拝一刀は偉い坊さんの前に再度現れ、これを斬ります。この坊さんが凄くて、まさに一刀両断にされたその瞬間に


よきかな
道を
極むる者
……


よきかな
無門の関
………


と言い残して絶命するわけです。考えてみれば自分を殺しに来た男がちょっとこれ無理だと、残念ながら切腹するしかないと言ったらですね。どうぞどうぞ切腹してくださいと、危ないとこだったなあ!おい!という話だと思うんですね。それが刺客道を極めよなんて言って追い返してですね、極めて帰ってきちゃったじゃねえかよ!だから言わんこっちゃない。けれども坊さんは「よきかな」とか言って死ぬわけです。こ、これが悟りを開くということか、と思わざるを得ない。そういう壮絶な世界が毎度毎度展開するのが『子連れ狼』なんですね。そんな作品には思わず手帳に書き取りたくなるような超格好いい台詞が満載されており、またそれを英語で読み直すというのがね。「よきかな 道を極むる者」は "Is this not good? He who perfects his path?" なんていう、何か非常に大層な言い方になるんだなあ、とか新しい発見と楽しみを提供してくれるわけです。ではまた次回!

Apostrophe(')

ご無沙汰しております。
ご無沙汰している間にまた『子連れ狼』をひたすら読み返す周期がやってまいりました。その流れで若山先生が熱唱するこんな歌も毎朝毎晩聴いてですね。どうしてこんなに『子連れ狼』に惹かれるのか話せば長いのでまたの機会に譲ります(そう言っておいてその機会はついに来ないのであった それを知る子であった まだ三つであった と、そういうナレーションを入れたくなりますね。『子連れ狼』の話をしているとですね)。しかし最近は便利なもので、英語版も電子書籍で読めるんですね。iPadなどお持ちの方はダークホース・コミックスのアプリを使っていただくと、そこで全28巻がダウンロード購入できますよ。さんざん読んだ挿話ですが、英訳された台詞を読んでいるとまたなかなか味わい深く聴こえるんですね。たとえば写真のこちら、言わずと知れた『虎落笛』ですが



わしの
首が……
哭いている
ように……

きこえる……


さすがは

介錯人……
血が吹き出し
………………
首袈裟に斬った
斬り口が
…………

木枯しの
ように鳴るを
…………


虎落笛と……
言うそうな……
いちど……
そんな音が出る
ように斬って
みたいと願っては
いたが……


おのれが
斬られて
………
鳴るは……
笑止
……


という、劇場版『三途の川の乳母車』(72年)でもほぼそのまま再現された、歴史に残る名台詞がですね。
虎落笛は"Flute of the fallen tiger"というのか、なんて発見があったり、
または
"I always dreamed of making a cut that would sing...
And now...
I hear my own...
Such irony..."
なんていうのは原作の殺伐感と寂寥感を非常にうまく捉えた名訳だと思いますね。
そんなわけで英語版もお勧めです。Amazonなんかでは単行本もまだ買えるんじゃないでしょうか。フランク・ミラーなんかがたいへんに影響を受けたということで有名な『子連れ狼』ですが、こちらのバージョンを読んでいるとどういう影響であったのかがボンヤリ分かるような気もしてきます。そんなわけでもう一度、若山先生の名曲を聴きながらお別れしたく思います。次回までご機嫌よう!

『マン・オブ・スティール』批判への批判に答える

ご無沙汰しております。ご無沙汰している間にこちらでこういう記事を書かしていただいてですね。

モヤモヤ超大作「マン・オブ・スティール」のスーパーマンが煮え切らない件

するとこういう指摘をいただきました。

てらさわホークの『マン・オブ・スティール』評の事実誤認について

ここで問題とされているのは
・映画のなかで描かれていることはすでに原作コミックにあることだから、それを知らずに映画を叩くのは筋違い
・スーパーマンは映画の中で人助けをしている。人助けをしないというのは俺の捏造
・何でもかんでも全部ノーランのせいにするのはおかしい
といったところでしょうか。自分で書いたものについてこういう補足をするのはみっともない話ですが、拙レビューを楽しんで読んでくださった方もいらっしゃると信じておりますので、その方たちのためにもですね。指摘されているいくつかの事柄についてお話ししたいと思います。なので少々お付き合いください。

まず
・映画のなかで描かれていることはすでに原作コミックで描かれていることだから、それを知らずに映画を叩くのは筋違い
ということについてはっきり申し上げておくと、知らずにいろいろ言っているわけではありません。
たとえば原作のスーパーマンにしてからがもう赤パンを履いておらず、ここしばらく今風のコスチュームを着ていることは理解しています。コミック版の最新衣装は詰襟で、どうせならこのデザインも映画で採用していればヘンリー・カヴィルの襟ぐりから胸毛がチラチラ見えるという問題も解決できたのになあと思います。
あとスーパーマンの「S」が地球のアルファベットではなくてクリプトン星における家紋なんだという設定についても、これは78年の映画ですでに語られていたこと、およびコミックでもそうした設定になっていることも承知しています(「自由」じゃなくて「希望」という意味でしたね。これはすみません!超すみません。以後気をつけます)。
それに原作のスーパーマンだってもうずっと悩めるヒーローだということもですね。今日び悩まないヒーローを探すほうが難しいわけですが、このことはあとでもうちょっとお話しします。
またはスーパーマンは人を殺したことも死んだこともあるとか、義理の親父ジョナサンの性格も何度か変わっているとか、スーパーマン・レッドとスーパーマン・ブルーの2種類になったことがあるとか、レックス・ルーサーが大統領になったとか、まあその長い歴史でいろいろあったことは把握しとります。たいていのことはもうやってますねと。
なので、何も映画が勝手に設定をでっち上げていると言いたいのではないわけです。繰り返しますが、原作上で諸々描かれてきたことを知らずに映画をブッ叩いているわけではありません。むしろ新しいスーパーマン像を作るにあたって説得力を増しそうな要素を、今度の映画は原作からいろいろ拾ってきているなと感じました。ただ問題はまさにそういう、拾ってきた要素の使い方だと思うんですね。いまスーパーマンの映画を作るにあたって何かこう、リアルにやろうという目的があって、そうするうえでコレは使えるなという。ただそうやって拾い集めた要素のアレコレでもって結局どういうスーパーマンを描きたかったのかということに、非常にモヤモヤするんですね。

それが2つめのポイント、
・スーパーマンは映画の中で人助けをしている。人助けをしないというのは俺の捏造
ということにつながりましょうが、映画の中でカル・エルが「スーパーマン」になってから、やっぱりこれは人助けをしてないと思うんですね。確かにこどもの時分に、川に落ちたスクールバスから同級生を救いました。でもこのときはまだスーパーマンを名乗ってないわけです。むしろそのことを諌められて、以来能力を封印しますね。何というかスーパーマンの映画ですから、自然な心理として「スーパーマンが」「人助けをする」ところが見たいじゃないかと思うわけです。レビューにも書きましたが、そりゃマクロで見れば地球を救おうとしています。ただ見え方というか物語の構成としてどうなの、という話です。いろいろ引っ張って引っ張ってカル・エルがスーパーマンとして立つことをとうとう決意した、直後にゾッド将軍との大バトルにいきなり突入してしまう。ビルがドッカンドッカン壊れてですね。これがデビュー戦なんだからアレコレ気を遣っている余裕はないだろうとか、そういう擁護はできるでしょう。しかしそれにしてはちょっとブッ壊れすぎじゃないか、街が。実はものすごい数の一般市民が死んでるんじゃないか。と思わざるを得ない。それこそ画面上の見え方としてスーパーマンがそれを気にするふうでもない、というところにやっぱりもの凄くモヤモヤするわけです。デビュー戦だからとはいうけれども、逆にデビューでコレだとスーパーマンがですね。大きな目的のためには小さいことはしょうがないと、物が壊れても人が死んでもそれはコラテラル・ダメージだと、そういうキャラクターとして規定されてしまうんじゃないかと。そんな心配をしたわけです。ということでちょっと話はずれましたが、「スーパーマンが」人助けをしない、という書き方は間違っていないと信じております。これはズルい言い方でしょうか。

あと物語構成についてもうひとつ文句を言うとすれば、カル・エルとして力を使った、それを隠しておかなければならなかった、というこども時代のエピソードに対応する場面が実はないと思うんですね。いろいろ逡巡してきたカル・エルがスーパーマンとして立つことを決意する、そのことで劇中さんざん付き合ってきたフラストレーションが晴れる瞬間がない。確かにいよいよコスチュームを身につけて初飛行する場面はあったし、ここは多少なりとも高揚しました。でも映画の前半で義理の親父からまだ力を使うときではないと言われて呻吟してきた、その葛藤は映画が終わっても何となく晴れない。これはやっぱりもうちょっと寄った視点で、スーパーマンが人の役に立つ、役に立てるんだと自覚する、そういう転換があって然るべきだったと思います。スーパーヒーローが悩んじゃダメという単純な話ではないわけです。他作品を引き合いに出すのは好きじゃないですが、それこそスパイダーマンなんかはアレコレ悩むのがアイデンティティというか仕事のうちでしょう。だから葛藤することは問題じゃないのです。別に俺は悩みなんかないぜイエー、という単純な映画がいいぜと言いたいわけでもない。問題はそこから先のことで、悩んだ末にその葛藤をついに全部乗り越えて大暴れするのか、あるいは極論すれば悩みすぎて死んじゃったぐらいのですね。そういう転換ですね。特にこの手の映画にはそんなカタルシスが必要なんだと思います。クリストファー・ノーランは(という言い方をするとまたお前ノーランのせいかよと思われましょうが、その話はこのあとすぐ)アメコミ映画にそういうカタルシスを持ってくるのが下手だなあといつも感じるわけです。
(あとやっぱり劇中で軍人同士がちょっとスーパーマンという名前を口にして、それがたぶん定着していくんだろうという、そのさりげない演出はどうなのと思います)

ということで最後のポイントでございます。
・何でもかんでも全部ノーランのせいにするのはおかしい
確かに今回の映画、監督はザック・スナイダーです。ノーランではない。しかし現場を任せたとはいえ、脚本家のデヴィッド・ゴイヤーと一緒にストーリー原案を書いたのはノーランですね。スナイダーが監督として加わった時点で映画の方向性は決まっていただろうと思うわけです。そのことでもってノーランノーランと言っています。確かにノーランを執拗にブッ叩きながら、スナイダーについてはなぜかどうしても優しい視線を向けてしまうことは事実です。何かと粗はあるものの、毎度こっちがビックリするような画を作ろうとしてくるからでしょうか。なので同じ監督の『300』や『ウォッチメン』についても多少モヤモヤしつつ堪能してきました。
あるいはこれまでさんざんダメなアメコミ映画、略してダメコミ映画を観てきてですね。『X-MEN : ファイナル・ディシジョン』とかドルフの『パニッシャー』とか、あるいはスタローンの『ジャッジ・ドレッド』に対してさえ、常に何とかいいところを見つけてきたわけです。そういう寛容さを持った人間が、どうしてノーランにはこんなにカリカリしてしまうのか。なぜだ!そのことについてはもう少し考えていかなくてはならないと思います。

以上つらつらと書きました。批判に答える形になっているといいのですが……
ということで今後ともよろしくお願いいたします。

拘禁服エアロビクス

ご無沙汰しております。最近はツイッターなるものでしょうもないことを思いつきでパラパラ書いてですね。毎回ちょっと立ちションしてスッキリしたような様子でおりましたが、まあしかしあちらにはあまり長いことも書けませんので今日はこちらに俺のふと思ったことを、しかも殆ど全部俺の印象で書きます。
何の話かといえば最近昼日中の往来で在日韓国人は死ねとか殺せとか吠えるのが流行ってるというじゃないですか。昔っからそういうことを言うような人たちは一定数以上いたんでしょうが、にしてもそう思ってフーンと言っているわけにはそろそろいかないんじゃなかろうかということを最近は考えるわけです。
こういう手合いが普段どんな生活をして何を考えてるのか想像するのは石原慎太郎の行動原理に関してあれこれ考察するのと同じぐらいたいへんアホらしいことですが(どうせロクなこと考えてない)、まあでも考えてみなけりゃしょうがないと思いつつボンヤリ想像してみる。
こういう人たちは普段から外国人に対して恨みつらみを募らせて、そんな鬱憤がいよいよ爆発しそうになったところで外に出て行って死ねだ殺せだ言うわけですよね。
おそらくマトモに暮らしていればまあ金がないとか仕事がつらいとか女とうまくいかないとか、そんな悩みは尽きないと思う。少なくとも俺はそうです。だからといって自分がマトモだと言いたいわけではないですよ。それに俺だってたとえば自民党はどうしようもねえなとか石原慎太郎はバカだな、許し難いなと日々思うわけです。でも自分のあれやこれやが自民党のせいか、石原慎太郎のせいかといえばそうは思わない。そのへんが許せないのと自分の問題は別のことです。まあ物凄い俯瞰で見れば政治のせいだということはできるかもしれないけれども、じゃあ政権が替わったり石原慎太郎がどうにかなれば俺が個人的に抱えている諸問題が解決するのかといえばそんな便利なことはあるわけがないんだと。それと同じことでたとえば日本に外国人がいなくなったら自分の生活がよくなるなんてそんなはずはないですわね。
ただそういう割り切りができない人たちなんでしょうか。だから自分の先行きが不安だ、現状含めて前後左右がうまくいかないということの原因を何か分かりやすい他者、もっと言えば弱者に求める。それを攻撃して彼らの存在をなくすることができれば自分がすっきりする、ひいては幸せになれると信じているんじゃないか。
完全に逆恨みだ。自分の人生がどうにもならないのを人のせいにする。そういう人たちを俺は生で仔細に見たことがないからあくまで印象論でしかないけれども、たぶん金もなくて先行きも見えないんじゃないかと。そういう状況でも何かしょうもないことをハハハと笑って話せる相手もいないのかなと。まあ(俺も含めて)先行き不安だなんて人は山ほどいるんでしょうが、ただその中のある一定の人たちがおそらく自分より幸せな人間はみんな死ねばいいと思っていると、そういうことなんじゃないかと。
そこで思い出すわけです。秋葉原事件。派遣を切られた兄ちゃんが、自分が仕事がなくなったのも女も友達もいないのも全て世の中のせいだと何だか思いつめて、トラックで秋葉原歩行者天国に突っ込んでですね。だれかれ構わずナイフで刺したと。
一方そのころこちらの人たちです。在日韓国人は死ねという人たち。白昼の往来で死ねだ殺せだ、殺意をむきだしにする。本人たちは絶対に否定するだろうけれども、秋葉原事件の加害者と彼らの成り立ちは同じだ。完全に逆恨みじゃねえかよという点において。数を頼んで言いたいことを垂れ流すだけという卑怯さをより性質が悪いと思うべきか、実際に人を殺していないぶんだけまだマシと思うべきか。
だけどそういう連中というのがアレなんですよね、人殺しやら人の世の秩序を乱す者やらは問答無用で死刑だ!とかそういうことをまた吠えるわけですよね。自分自身は明らかに体制から弾き出される寸前のギリギリのところにいて、しかも体制から見れば十把一絡げの吹けば飛ぶような存在であると。もっと言えば先ほど書いたようにそれこそ秋葉原事件の兄ちゃんともはやどう違うんだという存在になりかかっているわけですよね。にも関わらず物凄い体制側みたいなことを言う。自分は大丈夫だというか絶対に正しいと。これはいったいどういう心理なんだろうと思いますですね。

さらに分からないのは、そういう彼らの中にその、いわゆるオタクが多いということですよね。具体的に統計があるわけじゃないからアレですが、まあでも字を読むのも面白くないししんどいからアニメばっかり見てるとか漫画ばっかり読んでるとか、そういう彼らは多いんじゃないかと思うわけです。これは憶測に過ぎないですが。ただ憶測に過ぎないとしてもですよ、たいていのアニメでも漫画でも何でもいいんですが、そういう極度に差別的なものの考え方というか、その拠り所になるような作品ていうのが、俺が知らないだけで最近はあるんでしょうか。
俺の知る限りたいていのフィクションというのは程度の差はあれ個人を主人公にするもの、大なり小なり反権力的および反体制的なものなんじゃないかと思うのです。『スター・ウォーズ』だって『ワイルドバンチ』だって『ガンダム』だってそうじゃないすか。道に出てって外国人を殺せというような考え方を是とするフィクションを、少なくとも俺はあんまり見たことがないです。
なおかつ自分の話をしてしまえば、まあ何か弱い者に石を投げるのは格好悪いなあというようなものの考え方というのは、自分が子供の頃から今に至るまでずっとボンヤリ見てきたものによって作られたと思うんです。じゃあ自分よりも弱いくせに恵まれた生活をしている者が許せないと思う彼らはいったい何に影響を受けてそう思うようになったのかということです。
そこが最近はどうにも分からんですな。
まあこのことを黙って考えているのも何なのでとりとめもなくワーと書きました。らしくもないのは百も承知です!次回は超人ハルクの話をします!また来週!

Pick Me, I'm Clean

ご無沙汰しております。

と思って前回の日付を見たら去年の11月でした。1年放置は辛うじて免れた!自分を褒めてあげたい!それはともかくイベントのお知らせです!さんざん放置してやっと帰ってきたと思ったらイベント告知という現金さは相変わらず!

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「納涼!アメコミ映画ジャンボリー!」
8/30(木)19:30〜 @新宿ロフトプラスワン

アベンジャーズスパイダーマンバットマンにスーパーマン!いつまでたっても映画館はアメコミだらけ。しかし本当に面白いのはどれなんだ!マンガ映画の酸いも甘いも噛み分けたいい大人が大激論!

【出演】てらさわホーク(映画秘宝アメコミ班)、柳下毅一郎特殊翻訳家)、高橋ヨシキ(デザイナー)
【司会】多田遠志(ロフト秘宝番、ライター)

OPEN 18:30 / START 19:30
前売¥2000(飲食代別)
※前売は8/2(木)よりイープラスにて発売!!
イープラスチケット購入(サイトには8/1より反映されます)
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/schedule/lpo.cgi

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そんなわけで超ひさしぶりにアメコミ映画イベントをやらしていただきます。前回が2006年のことでしたから実に6年ぶり。ろ、6年!小学6年生だった子がそろそろ高校を卒業するかという年数でビックリしますが、しかし89歳の爺さんが95歳になる年数だと思えばあまり大したことではありません。俺はいつもそう考えるようにしている。そしてこれからもだ!

もはや完全に薄れた記憶を辿れば、前回のジャンボリーはダメなアメコミ映画、略してダメコミ映画についてワーワー言うという趣旨でございました。あれから幾歳月、アメコミ映画といえばダメなものということでは必ずしもなくなってきたように思います。素晴らしいことだ。だがそれでもダメなものはある!ということで今回も素晴らしいアメコミ映画やダメコミ映画についてワーワー言いたいと思います。しかしおそらく、というか確実に、ダメなほうに関してワーワー言う時間のほうが長くなるでしょう。

一緒にワーワー言っていただくのは言わずと知れた特殊翻訳家柳下毅一郎さん、そして言わずと知れた映画秘宝アートディレクターの高橋ヨシキさんです。このお2人がいてくれる上にロフトの多田さんが仕切ってくれるので、俺は隣でハハハすごいね〜とか言っているだけで何とかなるでしょう。と完全に大船に乗った気でいるのもアレなので何か準備めいたことはします。少なくとも準備しようという気持ちだけは持っておきたいと思う!俺が当日手ブラで落ち着かない様子で現れたら、ああいろいろあったんだなあと思ってください。

では30日にお会いしましょう!アベンジャーズ!アッセンブル!